[インタビューに関連する主な出来事]

2002年8月:合資会社エス・エム・エス設立
2013年3月末:エス・エム・エスの代表取締役を辞める
2014年6月:COENT VENTURE PARTNERS始動
2015年8月:REAPRA Ventures設立

はじめに

このコラムは、弊社CEO諸藤に、前社エス・エム・エスを辞めることを決意してから、Reapraを創業し現在に至るまでの葛藤や変化をインタビューし、コラムにまとめたものです。起業家の環境と自我の相互作用の1ケースとしてお読みいただければと思います。また、このコラムは本編の内容とは独立した構成となっているので、お時間のある時に読んでいただければと思います。

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編集 まず、エス・エム・エスを辞める前の話からお聞きしたいのですが、辞める前はどのような感情でしたか?

2013年の3月末に代表を降りてから数年間、移行期間として取締役でエス・エム・エスに残り、海外投資を担当していました。その頃は、「このままエス・エム・エスを辞めたら廃人になってしまうんじゃないか」という気持ちと、「次にチャンスがあるうちにエス・エム・エスを辞めなくては」という気持ちの間で葛藤していました。創業者として会社にしがみついて、周りに迷惑をかけるのは嫌だったので。一方で、エス・エム・エスはこれからも圧倒的に伸びる領域で事業をしていて、とても充実した日々だったので、辞めたくないなという思いもありました。

編集 次のキャリアについてはどのように考えていたのでしょうか?

エス・エム・エスを辞める3年くらい前から、次のキャリアを模索し始めました。もう一度起業家を目指すのは病んでしまいそうと思い、一定の社会性があり、楽しくやれそうなものとして学校の先生と建築家を考えて、具体的にシミュレーションまでしていました。 ただ、これまでの自分は色々な人の犠牲の元に成長してきた感覚があったので、自分が受けた様々な恩を社会に還元したいなと思いました。精神的に辛くなるのが嫌だからという理由で社会との向き合い方を限定するのは申し訳ないなと。辞めるタイミングでまだ35歳だし、もう一度社会と向き合って、これまで自分にしてもらった様々な投資を社会に還元できるように、チャレンジしようと思い直しました。 次に考えたのが、海外に行って、グローバルな金融システムを触ることです。元々、エス・エム・エスのときには、日本という限定された地域で、グローバルな金融システムとリンクしていない事業をやっていたからこそ倒産しなかったという感覚がありましたし、日本ではエス・エム・エスでやっていたこと以上の大きなことができるとは思えなかったので、海外に行って様子見をして、英語の勉強をしつつやりたいことを見つけようかな、と考えました。海外に行けば、物理的にエス・エム・エスと距離を置くことにもなりますし。これが2012年のことです。

編集 海外移住地としてシンガポールを選ばれたのはどうしてですか?その時はどのような感情を抱いていたのでしょうか?

家族も一緒に行く前提で海外を考えたときに、アメリカやヨーロッパでは、自分の持ってるスキルや資産だとあまり大きなことはできないのではないかな、と思いました。相対的にアジアなら何かできるかも、と思い、その中でも場所としても治安が安全なシンガポールを選びました。場所選びにあまり迷いはなかったです。忘れもしない2014年4月1日、シンガポールに到着したら環境の違いにびっくりしてめっちゃ帰りたくなりました。当時は、準備ができた状態ではなく、エス・エム・エスを辞めるタイミングを決めてシンガポールに行っているので、とにかく社会に放り出されるのが怖くて。とにかく、次の10年, 20年やりたいと思えることを見つけたいなと思っていました。

編集 シンガポールに移住してからはどのようなことをされたのでしょう?

シンガポールに来て、いきなりReapraを創業したわけではなく、まずはCOENTという会社を立ち上げて投資を始めました。"起業を経験した人が寄り添う""一緒にアントレプレナーとやっていく"というところを自分がやりたいなと思ったし、価値が出せるかな、と。アントレプレナーと一緒に、の意味でCO/ENTです。その頃から、共に作るというところは意識にあったのかもしれないですね。会社を立ち上げたのは、金融システムを学びたかったからです。勉強して学ぶより、実践しながら学ぶ方が構造理解になるかな、と思って。2,3年で何か勉強しようというサブテーマを置きつつ、拡張性があって探求できる領域を探そう、という動機でした。

編集 COENTを創業してからの手応えはどうでしたか?

創業してからはかなり葛藤しました。まだ英語も話せないし、何もわかっていない状態で東南アジアでVCを始めたので、大きいことをするならネットワーキングしかないと思ったのですが、それだと複雑性が低いなと思いつまらないなと思いました。結局、エス・エム・エス時代の経験が体に染み付いていたため、長期時間軸で伸びていくと信じられるような領域における実践じゃないと動機づけなくて、東南アジアの市場を様子見したいけど、様子見を目的としたような実践じゃ満足できなかったんです。今振り返れば、当時やっていた、次の領域を探したり、うまくいかない状態を考えたりすることは、紡ぎ出そうとしてる環境が自分一人に閉じずに、関わるステークホルダーが「環境と自我を相互に作用できるような場を作る」っていうところにおいて株式会社ができることを探そうとする作業であり、統合しようとする作業だったのかなと思います。当時は環境と自我の相互作用という概念を意識していたわけではないですが、こうなりたくないと外堀を埋めていったのが、構造の一部になっていったのかなと。

COENTをやりながらある起業家を支援しているときに、支援先の起業家が自分だとそんなのじゃ動かないというところに対して全然違う感度で動機が剥がれたりすることに気がつきました。それが、エス・エム・エス時代にインプットしていた脳科学や行動経済学の知見、具体的にいうと人間の可塑性とか動機とかインプットとアウトプットを構成している因果関係などが結びついて、起業家が作る組織自体のアイデンティティが大切なんだろうな、と考えました。そこから隣接する本をまたインプットしていくと、起業というのはつくづく環境と自我の相互作用だな、と。

編集 なるほど。COENTと「環境と自我の相互作用」は諸藤さんの中ではつながりがあり、今Reapraが言う「環境と自我の相互作用」はこの頃の経験から着想されているのですね。そこからReapraを創業するまではどのような変遷を辿られたのでしょうか?

次のキャリアを模索している中で、"既存のインダストリーで疲弊してるところの構造を捕まえて、それを再整理する"というのは凄く単純なことなのでは、と気付きました。でもそれは自分のやりたいことではなかったんです。今までめっちゃ複雑で楽しくて拡張するゲームやってた人がめっちゃバージョンダウンしたゲームをする感覚で。そう考えると、東南アジアでやればカオスだなと思いました。ただ当時はとにかく不安で怖くて、「どうしよどうしよ」というのが頭をもたげていました。 そこで、自分の期待値の高さを改めて認識すると同時に、自分は1つの産業にかけるのが怖いだけなので、N数を増やせばいいのではないかと思ったんですね。伸びゆく産業になりそうだけど複雑な領域を特定し、そこで産業のリーダーを作ろうと研究実践するというのは自分のやりたいことだなと思えたし、投資家の立場からすると20個とか決めて2個でも当たればそれでいいじゃん、って。もちろん多くが成功するような研究実践を今も志向していますが。それで、もしうまくいかなくてお金が全部無くなったことを想像したのですが、「めっちゃナイスチャレンジ」と思えるなと思ったんです。これなら揺るがなくやり続けられる。そう思ってReapraを創業しました。

編集 この時どんな感情でしたか?

この時はじめて、エス・エム・エスを辞めて良かったなと思えました。エス・エム・エスの時の感覚をもう一度掴めた、良かったと自分に思い込ませたのではなく、自分の中で整理して辞めて良かったなと思えました。これで確実にユニバースが広げられたので、絶対戻りたいとは思わないな、と。今度のチャレンジは結果が出るのも時間がかかるし、出てなくても楽しいと思えるし、未来に対してより広い範囲で模索できる。とにかく没頭できるものが見つかったという感覚ですね。

編集 ご自身のチャレンジを強く信じ込めたということですね。そこからは順風満帆に創業を?

いえ。Reapraという形態にはすごく納得できたのですが、東南アジアで産業を作るという目標を掲げているのに関係者が日本人だらけ、という状態に違和感を持っていました。もっと、現地の人を増やして行かなきゃだな、と。しかし、英語でのコミュニケーションは難易度が高く、日本語でなら言えることが簡単に伝わることが全然伝わらなくて、フラストレーションが溜まっていました。 さらに言うと、Reapraの現地化を進める際に、あまりコミュニケーションをきちんと取らずに採用してしまった人がいて。社会に還元したいと思ってこのチャレンジを始めたのに、結局動機がない人を巻き込んでしまっていて罪悪感がありました。とりあえず組織を大きくしようと思って、とにかく変数をいっぱい入れ込んで、何か方向性を紡ぎ出そうとやりまくるフェーズでした。今思うと、思った以上に共同学習は進んでいなくて、1人であの手この手をしまくっているという構造で、組織知が上がるような対話にはなっていなかったです。

編集 問題点はどこにありましたか?

そこで気づいたのが、日本人が東南アジアでうまくやるのはかなり厳しいチャレンジだな、ということです。投資額を保証して若い人が異国の地でやると本人が学習できないし、そもそも日本人である必然性がほとんどないのでうまくいきませんでした。また、いきなり資金を渡され起業します、という構造で人を集めると、そこに乗ってくる人はあまり起業家気質ではないという問題がありました。そこで、複数に跨いで張って、残ったところに支援を強めていくというやり方に変更しました。 また、東南アジアで起業をすると、市場が発展途上なので、大きな企業に買ってもらうというルートしかないんです。やりたいことと時間軸を考えると、もっと地に足をついてビジネスを支援していかないといけないんじゃないかと思い直しました。

ただ、ある起業家の支援を行った際に希望が見えました。彼は日本人なので、密にコミュニケーションを取ることができ、ゼロからやってみたら、マーケットの選定から黒字まで問題なく伴走できるな、と感じたんです。つまり、言葉の問題さえ取り除ければ東南アジアでもやれることが結構あるということがわかりました。特に、競合と差別化するオペレーションを作るだけのノウハウは結構持っていて、そこが自分の強みだなということが確認できました。そこで、投資地域に日本を増やして、東南アジアと日本で学び合う方がいいのかな?と思い、日本進出に踏み切りました。それが2016年の終わりか2017年くらいのことだったと思います。直接東南アジアのマーケットにアプローチするより、日本で解像度を上げてそれを変数に分解して東南アジアに逆輸入するのが最短なんじゃないかと思って。

編集 Reapraとして起業家を支援する中で気づいたことはありますか?

支援を進める中で、自分でやるのは楽だけど、支援する場合、その人の学習バリアの影響が大きいなと感じ始めました。ギャップが生まれて信頼関係が壊れたり、一度感化されても、能動的な学習にはつながらなかったり。ここに、人へ渡すことの難しさを感じました。また、コンプレックスがある人は学習に向いていない可能性があるな、と当時は漠然と考えていました。これは今の「囚われ」に繋がる考え方です。

編集 続いて、「社会と共創する熟達」についてお伺いしたいと思います。「社会と共創する熟達」という概念を想起された時の、諸藤さんの感覚を教えてください。

社会と共創する熟達ができた時、これは、組織も起業家も自分も「社会と共創する熟達を歩んでいる」と見立てて学習していけば、フェアだ、と思えました。何がフェアかというと、最終的に有機的な組織になれるような、有機的というのはヒエラルキーがない・階層がないような形で意思決定できるようなものになるんじゃないかと思えたんです。社会と共創する熟達の熟達度を上げていくことによって、自分の熟達度そのものが上がり、組織への意思決定に関与できるので、誰か一人の人格を追う必要がなくなるっていう構造に持ち込めたんです。これで、自分という船じゃなくReapraという船に自分が一搭乗員として乗ってるっていう構造に変えられたという感覚がありました。この概念を想起する前は、セルフィッシュに人を巻き込んでしまっていることに対して不安があって。それが社会と共創する熟達という概念によって救われました。そして、改めて、組織の中と向き合った方がいいんだ、と思えました。社会と共創する熟達を紡ぐ前のReapraは"諸藤株式会社"のようになっていた感覚があって。

編集 他に、共創を促進した取り組みはありますか?

もう1つ、"諸藤株式会社"を脱却する足掛かりとなる要素としてRM(起業家伴走支援としての担当、Relationship Manage、略してRM)があります。元々は週1で30分のセッションで支援をしていたのですが、全然持続的な構造ではありませんでした。そこで、誰かが伴走をした方が良いよね、ということで生まれたのがRMという制度でした。その辺りで、今で言えば共同学習と呼ばれるような構造が生まれました。RMも起業家と共に学習しないと、伝書鳩のようになってしまうので。RMを始めたことで、RMとしてみんなが健全に葛藤できるようになって。その時やっと、"諸藤株式会社"みたいなものから脱却できた気がしました。社会と共創する熟達の解像度が上がることで、「諸藤さんしか価値がない」と他の人に言われたとしても、未来に対してはそうではないと信じられるので全然受け止め方が違いますね。

編集 お話を聞いていて、Reapraという構造に対する揺るぎない動機と自信を感じました。

はい。自分にとって、Reapraのミッションはとても動機付いて、死ぬまでやりたいことです。ただ、自分が劣化することと、持続的な組織にすることを考えて、一旦50歳までという時間軸を置いてオペレーションの作成をしています。東南アジアのマーケットはマクロで見ると伸びていくので、日本で作り上げたものを東南アジアに移しつつ、見える範囲で東南アジアに投資していこうと思っています。

編集 最後に、今後のReapraに対してコメントをお願いします。

Reapraに通底するまさにwayを紡ぎ出せたのが社会と共創する熟達で、これは相当いいものが紡げたんじゃなかな、と思っています。例えば今年(2020年)でいうと、自我向き合いに結構重心がありました。それがある程度の解像度がある一般化が進むと、今度またマーケットを見れるという、まさに組織としてスイングするような形で環境と自我の相互作用が進み始めているのかなと思っています。今はとにかく、学習に集中すれば絶対に社会と共創する熟達というやり方で産業の研究実践ができるんじゃないかな、と信じています。


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